デヴィ夫人の両親と壮絶な生い立ち|大工の父と母、弟の悲劇の真相
国際社交界で「東洋の真珠」と称えられ、80代を超えた現在も唯一無二の存在感を放ち続けるデヴィ夫人。華やかなセレブリティとしての姿が広く知られる一方、その栄光の裏側には、戦中・戦後の混乱期を駆け抜けた想像を絶する過酷な生い立ちが隠されています。
名門貴族のような圧倒的な気品を漂わせる彼女ですが、生まれ育った家庭は決して裕福な名家ではありませんでした。一家を支えた大工の父親、足のハンディキャップを抱えながら愛を注ぎ続けた母親、そして自らの命を削ってまで学費を工面した最愛の弟――。世界のVIPを魅了するデヴィ夫人の強靭な人間力は、どのような家庭環境で育まれたのか。知られざる両親の素顔と家族の歴史に迫ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 家族の出自:本名は根本七保子。東京・麻布の木造長屋で大工の父、病弱な母、弟の4人家族として極貧期を過ごす。
- 両親の人物像:無口で教養豊かな大工の棟梁だった父・兵八郎と、足が不自由ながら内職で子どもを守り抜いた母・福島。
- 壮絶な別れ:大統領夫人となった直後、マスコミのバッシングを苦にした最愛の弟が自死し、そのショックで母も心臓発作により後を追うように急逝。
デヴィ夫人の実家と家族構成|麻布で生まれ育った「根本七保子」の原点
デヴィ夫人の本名は「根本 七保子(ねもと なほこ)」。1940年(昭和15年)2月6日、東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)で誕生しました。港区麻布というと超高級住宅街のイメージが先行しますが、当時の霞町界隈には職人や庶民が肩を寄せ合って暮らす下町の情緒が色濃く残っていました。
根本家の家族構成は、父親・母親・本人・2歳年下の弟の4人家族です。決して裕福とは言えない木造の小さな家屋で暮らしていましたが、第二次世界大戦の激化に伴い、幼少期の生活は一変します。東京大空襲の戦火を逃れるため、一家は母の親戚を頼って福島県へと集団疎開を経験。戦後の荒廃した東京へ戻ってからも、日々の食事すら事欠く凄まじい貧困生活が待ち受けていました。
幼い頃の七保子少女は、配給のわずかな芋や雑穀で飢えをしのぎ、着るものも継ぎ接ぎだらけという境遇に置かれていました。しかし、どんなに生活が苦しくても、根本家には知性と誇りを失わない独特の気風が流れていたといいます。
父親・根本兵八郎の人物像|大工の棟梁が愛娘に授けた美意識と教養
デヴィ夫人の父親である根本兵八郎(へいはちろう)氏の職業は大工でした。単なる現場作業員ではなく、自ら図面を引き現場を束ねる腕利きの「大工の棟梁」として、周囲の職人たちから一目置かれる存在だったと伝えられています。
兵八郎氏は寡黙で厳格な職人気質であると同時に、当時の職人としては非常に珍しい読書家であり、芸術や教養に対する深い理解を持っていました。自宅には文学全集や美術書が並び、幼い七保子に対しても言葉遣いや立ち居振る舞いの美しさを厳しく躾けたといいます。
しかし、戦争の混乱や過酷な肉体労働が災いし、兵八郎氏は次第に目を悪くし、大工仕事が思うようにできなくなっていきます。大黒柱の収入が激減したことで家計はさらに困窮。失意と病に苦しむなか、兵八郎氏は七保子が中学3年生(15歳)の冬にこの世を去りました。父の早すぎる死によって、一家は経済的な支柱を完全に失い、若き日のデヴィ夫人は一家の生活を背負って立つ覚悟を固めることになります。
病弱だった母親と極貧の幼少期|母の深い愛情と内職に追われた日々
父親亡き後、家庭を守り続けた母親の本名は「福島(ふくしま)」さん。夫の死後はもちろん、生前からも病弱な夫に代わって懸命に家計を支えていた芯の強い女性でした。
母・福島さんは生まれつき足が不自由(小児麻痺の後遺症)というハンディキャップを抱えていました。外に出て重労働をこなすことが困難だったため、自宅で朝から晩まで針仕事や洋裁などの内職を続け、わずかな工賃を得て子どもたちを育て上げました。夜遅くまで行灯の薄暗い明かりの下で針を動かす母の背中を、デヴィ夫人は今でも鮮明に覚えていると回想しています。
体が不自由でありながら、一度も愚痴をこぼさず子どもたちに無償の愛を注ぎ続けた母の姿は、デヴィ夫人にとって生涯の道標となりました。「どんな逆境にあっても決して弱音を吐かない」という強靭な精神力は、間違いなくこの母から受け継いだ人生の遺産といえます。
最愛の弟・八曾男の自死と母の急逝|引き裂かれた家族の知られざる悲劇
デヴィ夫人の家族史を語る上で避けて通れないのが、2歳年下の最愛の弟・八曾男(やすお)さんにまつわる痛切な悲劇です。成績優秀で心優しかった八曾男さんは、姉にとっても母にとっても一家の希望そのものでした。
弟だけには自分と同じような苦労をさせず、最高の高等教育を受けさせたいと願った七保子は、昼夜を分かたず働いて得た収入のほとんどを弟の学費に充て、見事に早稲田大学進学へと導きます。八曾男さんもまた、姉の自己犠牲を深く理解し、感謝を忘れない心優しい青年に育ちました。
しかし、運命はあまりにも残酷な展開を辿ります。七保子がインドネシアのスカルノ大統領に見初められ、国家の命運を背負ってジャカルタへ渡った直後、国内メディアは彼女の渡航をセンセーショナルかつ心ない論調で激しくバッシングしました。当時大学生だった八曾男さんのもとにも過酷な中傷の刃が向けられ、さらに姉の立場を利用しようと近づいてきた人物による金銭トラブルや裏切りが重なり、精神的に極限まで追い詰められてしまいます。
そして1962年、八曾男さんはわずか23歳の若さで自宅アパートにて自ら命を絶つという最悪の選択をしてしまいます。さらに悲劇は連鎖しました。最愛の息子の変わり果てた姿を目にした母・福島さんは、あまりの激痛とショックから心臓発作を起こし、弟の死からわずか数日後に後を追うように急逝(死因:急性心不全・心臓麻痺)。
遠いインドネシアの地で、ほぼ同時に母と弟というかけがえのない肉親をすべて失ったデヴィ夫人。当時の絶望と悲痛は筆舌に尽くしがたく、この壮絶な別れこそが「私は何があっても生き抜いてみせる」という、何ものにも屈しない覚悟を彼女の魂に刻み込むことになりました。
高級クラブからスカルノ大統領夫人へ|家族を支え続けた若き日の激動の経歴
一家の絶対的な柱となるべく、デヴィ夫人の青春時代はまさに戦いの日々でした。父親の死後、都立三田高校の定時制に通いながら、昼間は千代田生命保険(現・ジブラルタ生命)でタイピストとして勤務。さらに夜は生活費と弟の学費を捻出するため、赤坂にあった当時最高峰の外国人向け高級クラブ「コパカバーナ」などで働き始めます。
圧倒的な美貌はもちろんのこと、独学で習得した流暢な英語力、社交ダンスやピアノの腕前、さらには父から受け継いだ高い教養が武器となり、彼女は瞬く間に赤坂の社交場で伝説的な存在へと駆け上がっていきました。
そして1959年、来日中だったインドネシアの初代大統領スカルノ氏と運命的な出会いを果たします。その知性と気品に強く魅せられたスカルノ大統領に見初められ、19歳で単身ジャカルタへ移住。1962年には正式に婚姻を結び、大統領第3夫人「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」が誕生しました。極貧の木造長屋から世界の頂点へ――。その劇的なサクセスストーリーの原点にあったのは、常に「家族の暮らしを何としても守り抜く」という純粋な責任感でした。
【デヴィ夫人の両親・家族】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人の本名や当時の実家はどこにあったのですか?
A1:本名は「根本 七保子(ねもと なほこ)」です。実家は現在の東京都港区西麻布(旧:東京市麻布区霞町)にありました。下町風情が残る地域で、大工の棟梁だった父のもと、木造の長屋で育ちました。
Q2:父親と母親はどんな仕事をしていましたか?
A2:父親の根本兵八郎氏は腕利きの「大工の棟梁」でした。教養が高く読書家でしたが、病気によりデヴィ夫人が15歳のときに亡くなりました。母親の福島さんは足が不自由だったため、家で着物や洋服の内職(針仕事)をしながら家計を支えていました。
Q3:最愛の弟はなぜ亡くなってしまったのですか?
A3:早稲田大学に通っていた弟の八曾男さんは、姉がスカルノ大統領のもとへ渡った際、当時の世論やマスコミによる激しいバッシング、知人からの裏切りに深く苦悩し、23歳で自死を選びました。母・福島さんもそのショックで心臓発作を起こし、わずか数日後に亡くなっています。
まとめ:波乱万丈を生き抜くデヴィ夫人の強靭な精神と家族の絆
テレビ番組やSNSで見せるデヴィ夫人の華やかで何事にも動じない佇まい。その鋼のメンタルの根底には、大工の父から授かった誇りと気品、足の不自由を押して働き続けた母の無償の愛、そして志半ばで失った最愛の弟への想いがありました。
貧困に打ちのめされることなく、自らの知性と行動力だけで激動の昭和・平成・令和を駆け抜けてきたデヴィ夫人。彼女が今なお人々を魅了し続ける真の理由は、過酷な運命を乗り越えて築き上げられた、家族への深い愛情と揺るぎない人生の誇りにあるといえます。 (出典: デヴィ 夫人 両親(Yahoo!ニュース))